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バイカルの想い

 

京都・下鴨の地で、1955年に創業したバイカル。

生クリームやフレッシュバターを使ったお菓子がまだ一般的でなかった時代から、お祝いのお菓子や、自分へのご褒美、また、手土産品など、世代を超えてお客様の至福の瞬間に寄り添うお菓子を作り続けております。

バイカルは、「地域の皆様に喜んでいただけるお店」をコンセプトに、住宅地を中心にお店を構えております。

現在、京都府に6店舗、大阪府に1店舗、加えて京都駅近くのホテル「京湯元ハトヤ瑞鳳閣」内に、カフェスペースを併設しております。

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バイカルのお菓子に対する想い

●バイカルは、厳選した素材を生かした安全でおいしいお菓子を通じて、お客様に豊かで幸福な時間をお届けいたします。

● バイカルは、製法の手間暇を惜しまず、常に鍛錬と挑戦を重ね、お菓子へのこだわりや想いを守り、そして培ってまいります。

●バイカルは、永く愛されるお菓子を丹精込めてお作りし、地域のお客様とともに歩む洋菓子店でありたいと考えます。



商品につきましては、SNSで随時発信をいたしております。
こちらもぜひ、ご覧ください。

素材へのこだわり

青森県産 紅玉りんご

半世紀以上前から愛されるアップルパイの「青森県産 紅玉りんご」。

多くの品種がある中、厳選している中身のりんごは、青森県産の紅玉種を使用しています。紅玉種は酸味が強く繊維がしっかりしているため、炊き続けても煮崩れせずシロップの旨味を吸収するので、バイカルのアップルパイに最適な品種です。旬のおいしい時期に収穫されたりんごを、すぐにバイカルの配合でプレザーブにしてもらい、送ってもらっています。

1991年9月28日の台風19号で青森のりんごが大被害を被った際、もし青森県産の紅玉りんごがなくなったらアップルパイが作れなくなると、輸入ものの紅玉りんごのプレザーブを使って、いつもと同じように炊き上げて試作してみました。

すると、残念ながらジャムのように煮崩れでしまい、バイカルのシャキッとした食感のアップルパイには使えませんでした。その経験から、りんごは青森県産の紅玉りんごがなくなったらバイカルはアップルパイの製造をやめる!と強い決心をしました。


アップルパイの美味しさの秘密は?

 

花の香りがするカカオ「アリバ種有機栽培カカオ」

色々な文献から探し出したのが、「ナショナールという花の香りがするカカオがエクアドルにある」という情報でした。後にそれは「アリバ」というカカオだと判明しますが、絶滅しているとの情報もー。
様々なご縁から、私達の情熱が実を結び、フランスのオーガニックチョコレートブランドである、KAOKA(カオカ)社の創業者アンドレ・ドゥベール氏と出会い、2009年より、このカカオを使用しております。
アリバ種の特徴は、その味のよさとカカオとは思えない「花の香り」。繊細で芳醇な風味を誇るアリバは、「しっとり祇園石畳」や、秋冬のスペシャリテ「ショコラクリュ」に使われており、その味と香りは多くのお客様に好評をいただいております。

しっとり祇園石畳のご購入はこちら

フェアトレードのカカオの使用

バランスのとれた味わい豊かなブレンドチョコレートもさることながら、単一品種のカカオの力強い風味と、その個性的な味わいに感銘を受けた先代社長は、実際にエクアドルの農園へ。そこでの出会いから、エクアドルの固有種であるアリバを守り、現地の生産者がより豊かに暮らしていけるよう、KAOKA社が取り組む、フェアトレードの活動を、そのカカオをお菓子に取り入れることを通じて支援しております。

詳しくはこちら(別ページに移動)

フェアトレードとは

フェアトレードとは、貧困にあえぐ途上国の生産者達が、社会的な搾取を受けることなく、労働に対して正当な収入を得るための「公正な貿易」のことを指します。途上国の生産者団体と直接取引を行い、現地の生産者に必要なプロジェクトを組み込むことで、生活の質の向上を図ることが主な目的です。また、長期継続的に生産者側と取引をすることは、農村やスラムに暮らす人々に安定した雇用の場を提供することにもなり、自立を促すことができます。援助ではなく、正当な取引だからこそ、生産者にも商品に対する責任感が生まれ、より質の高い商品を生み出すことに繋がるため、消費者にとっても非常にメリットの多い取引なのです。

バイカルの歩み

はじまり

戦前、バイカル初代社長・川勝三郎の父は食料品店を営んでおりましたが、戦争ですべてが台無しになりました。復興が始まる中、「このまま食料品店を再開していいのか」と悩みます。
変革の時代、日本が復興していく様子にこれからの欧米化の波を感じ、「これからは食も欧米化しなければ!」と考え、フランス菓子店を開くことを決意します。

 

旅立ち

当時、バイカル本店の近くには、京都で一番美味しく、一番人気があり、一番多くの職人を雇っている「最高のフランス菓子店」がありました。このままでは勝ち目はない…。
ですが、絶望の中で、あることに気づきます。「あの店が使っているクリームは、本場フランスのものじゃない!フランスで修行した職人だっていないじゃないか…」勝機を見つけ、すぐに息子にフランス行きを命じます。この息子こそ、後にバイカルを創業する「川勝三郎」です。

 

苦闘

「本場フランスに行けば、フランス菓子を学ぶことができる」と思いきや、現実はそんなに甘くはありませんでした。現在とは違い、海外旅行すら高嶺の花であった時代、フランスの洋菓子店が見ず知らずの日本人を受け入れることはまずありませんでした。
「本場のフランスで修業するまで、日本には帰れない。」その想いだけでフランスにしがみついた三郎は、やっとの思いでひとつの店に辿り着きます。とはいえ、働き始めたからといって、状況が一気に好転するわけではありません。任される仕事は、毎日雑用ばかり。クリームの作り方ひとつ、教わることができません。さすがにこの状況に焦り始めた三郎でしたが、ここで運命の出会いを果たすことになります。

 

バイカル誕生

焦る三郎の前に現れたのは、一人の兄弟子でした。兄弟子は、三郎がフランスに渡ってから、初めて仕事を教えてくれた人でした。教わったのは、メレンゲの作り方やクリームの作り方など。「基礎ではあるが、非常に奥深いもの」を丁寧に惜しげもなく教えてくれました。「なんでこんなに優しくしてくれるのだろう?」不思議に思いながらも修行を続ける三郎。やがて月日が過ぎ、三郎の帰国が決まります。そのとき、兄弟子の想いに気づくことになります。「三郎、俺も実は純粋なフランス人じゃない。故郷はロシアなんだ。」その言葉を聞いて、三郎は悟ります。「フランス人に相手にされない寂しさを知っているから、優しくしてくれたのだ。」感謝で胸がいっぱいの三郎は決心します。兄弟子との会話によく出てきた彼の故郷にある世界最古の湖・バイカル湖からとって、自分の店は「バイカル」という名前にしようと。お世話になった兄弟子への三郎なりの恩返しでした。こうして、1955年、京都にバイカルが誕生することとなります。

1975年(昭和50年)英国エリザベス女王陛下が訪問された際において、献菓としてバイカルの洋菓子を京都御所へお納めいたしました。5月7日に特別機で羽田空港に到着、その夜は東京都港区赤坂にある迎賓館で昭和天皇主催の晩餐会にご出席。5月10日には関西へ移動され、桂離宮で野点(のだて)を楽しまれ、京都御所などを見学されました。